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10月, 2017の投稿を表示しています

2017秋・天皇賞(東京芝2000m)~やっぱり雨の中

  台風21号が北上し列島を抜けたかと思ったら、また週末に台風22号が通過した。週内からはずっと雨模様が続き、秋・天皇賞のスピード決着は望むべきもなかった。 関東では、土日にかけて雨脚は強まり、これはまた菊花賞と同じようなパワフルな競走馬魂が試されることになると、誰もが確信したに違いない。今や世界競馬の頂点に駆け上がっている日本競馬の巨大グループが、主として日本の競馬のために生産する名馬たちは、日本の軽い馬場に即応したスピードタイプの馬たちが多いから、秋華賞、菊花賞のような力とそれに耐えるだけの強靭な精神力が試されるような馬場になると、果たしてどの馬にスポットライトが照らされるのかが曖昧模糊とならざるを得ないのが、競馬ファンが直面する現実なのだ。 東京競馬場には11時ごろに到着した。西玄関受付から7階に上がり、しばらく椅子に座ってじっとしていた。大雨の中、競馬場に駆けつけるのも体力と気力が必要で、気儘勝手な山暮らしの身にはきついものがある。 雨は午後にはさらに強まる気配が濃厚で、途切れることなく馬場に降り注いでいる。それでもこの日、6万4千人のファンがどこやらから集ってきていた。これだけの豪華メンバーが揃えば、ライブで見たいと思うのは当然だろうし、雨が煙る不良馬場の秋・天皇賞などずっとなかったから、記念すべき記憶となる価値もあったろう。的中すれば喜びに包まれた記憶ともなるだろうし・・・。 何となくピーンと来た6Rの松岡正海ローレルジャックの単勝を買ってみただけで、9Rまでは競馬新聞と窓外に広がる馬場の状況を眺めながら時を過ごしていた。9Rの1000万条件の特別戦精進湖特別は、天皇賞と同じ2000mの距離で行われる。このレースをきちんと見守ったなら、今日の天皇賞のある種の傾向も判るというものだ。 結果は、何と2000m2分10秒1の決着で、上り3Fは38秒を要していた。良馬場の強い馬のスピード決着なら、2200mの時計である。すでに10秒以上時計のかかる水飛沫の跳ね上がる不良馬場となっている。天皇賞までに後1時間15分もあり、雨はさらに降り注ぐだろう。 GCの最終追い切りをいつものように録画して見直したりしていた。ひと目で気配の良さを感じたのはサトノクラウンだった。M・デムーロが前走毎日王冠で勝ったリアルスティールを降りてまで手綱を取る

2017菊花賞(京都・芝3000m)~水飛沫と泥だらけの勝利

先週は、週内に1日ほど雨が上がっていただけで、後は本州直撃の台風21号の影響で雨が続いていた。 結局、菊花賞当日も雨また雨。気になって、朝早くに投票に行き、午後からGCを見たが、芝のレースは水飛沫が舞い上がる状態で、6F(1200m)のレースでさえ、普段の良馬場からすると約6秒ほど時計がかかっていた。ここしばらくを振り返っても、これほどまでに悪化した芝のレースは想い出せなかったほどである。 実に悩ましかった。脚ひれをつけたような重馬場得意の馬が浮上するのか?いや、ここまで悪ければ、血統的にパワフルな血が保証された馬が浮上するのか?いやいや、もはやどの馬さえも同じ条件となって、結局はこれまでそれなりの力を示してきた馬が改めて脚光を浴びる結果となるのか?・・・はっきりとした見極めなど、私ごときには全てが五里霧中で、何も思い浮かばなかった。 勝負事と言うのは、いちど迷い始めると、迷いが迷いを呼んで、さらに見通しのきかぬ濃い霧の中に突き進んでしまうものである。 それほどのどの馬も体験したこともない馬場状態だった。 木曜の深夜に録画したGCの最終追い切りを、何度か見直して、私なりに各馬の気配をチェックしていた。最初に選んだのは、内からウィンガナドル、クリンチャー、アダムバローズ、サトノアーサー、ミッキースワロー、キセキ、アルアイン。追い切り時計ではなく、それなりに馬自身が走りたいような気配を示している馬たちを選んだ。でもこれでは多過ぎる。 パドックを見て、レースまでに軸馬を決め、4頭ほどまでに絞ろうと決めた。 しかし窓の外は雨が続いていた。雨は、台風21号の北上と共にレースが近づくにつれて雨脚が強まってもいた。 迷いは大きくなった。常識的には、先行馬有利という気持ちに振れてくるのはやむを得なかった。中団後方の様なポジションからホームストレッチで差し切るというイメージは持てない。せめて4コーナー5・6番手辺りにまで来ている馬でなければ・・・。 日曜の午後は、ずっと迷い悩んでいた。こうなったらダービー上位馬だけを選んでみようかとか、人気薄の先行馬のロングショットかもとか、どう考えても人気上位の一筋縄では決まらないだろうとか、芝の6Fで6秒ほどかかっているなら果たして菊花賞の決着タイムはどうなるのだろうかとか・・・雨の神様はどの馬を選ぶのだろうか

2017秋華賞~京都・内回り芝2000m 

先週の京都大賞典を横山典サウンズオブアースを軸にして、いわゆる縦て目の抜けで取り損ねたために、意気消沈して過ごした1週間だったのだが、思わぬ結末が待っていて、土曜の午後には予期せぬ微笑みに包まれてしまった。 まあ、こういうことがたまにはなかったら、楽しみのない人生になってしまう。そう思うと、頬の筋肉はさらに緩んでしまった。 と言うのは、こんな流れだった。 縦目で逃した京都大賞典の落胆と反省は、私にはダメージが大きく、一瞬頭をボーッとさせてしまっていたようだ 。ボーッとした中で、エエイとばかりに、まだ消してなかったAパットのキー操作をして、京都大賞典の後に行われた岩手・盛岡の南部杯(交流G1ダート1600m)を、ほんの少しだけ馬連で買ってしまったのである。先行するだろう吉原ノボバカラから、連覇を目指す田辺コパノリッキー、中野省キングズガイ、川田ゴールドドリームへの馬連3点だった。 その後GCはつけっ放しにして、レースの生中継も見たが、ゴールインした瞬間、圧勝したコパノリッキーに目を奪われて、何と2着にはキングスガイが届いたのだと錯覚して、そのままTVを消してしまったのである。京都のショックが尾を引いて、やはり頭はボーッとしたままだった。 それから1週間、反省の日々で何とか過ごしていた。土曜の午後に明日の秋華賞の軍資金は少しはあったのだろうかと、念のためネットバンクを調べてみると、何と思いがけず予想外に増えていた。取引明細を見てみると、どうやらJRAから振り込みがあったらしい。JRAの購入記録を見ても、毎日王冠は的中だったが、その配当は京都大賞典で失くしていた。だからJRAから振り込まれる筈はなかった。 そこで思い当たった。そう言えば南部杯を買っていた。そこでAパットの地方競馬から南部杯の購入記録を調べてみると、ノボバカラとコパノリッキーの馬連を確かに買っていたのだ。しかもノボバカラが人気の盲点となって、馬連は万馬券の結果だったのである。その配当が、JRAから振り込まれていたのだった。 ヒャーッ・・・。私は、この1週間を忍耐と反省の日々で耐えていた。ああ、それなのに、それなのに・・・。と、なれば、1週間の反省と忍耐は、そもそも無駄なことだったのか?いや、それを言ったらお終いかも・・・。 とにもかくにも、結果を知らずにいた

毎日王冠と京都大賞典~10月8・9日

これから本格的に始まるG1戦を前にして、やはり古馬戦線の重要なトライアルとなるのは、毎日王冠(東京・芝1800m)と京都大賞典(京都・芝2400m)だ。そしてこのレースを見終えると、秋G1の活況が始まっていく。 今年は、7日からの3日連続開催で、8日に毎日王冠、9日に京都大賞典が組まれた。世の中連休中で、頭の体操の退屈しのぎにもなったが、意外だったのは昼間の気温で、出走馬の多くは汗をタラタラと流していた。10月初旬の30度近い温度もきついものだ。すでに扇風機はしまっていたので、夕方まではエアコンをつけっ放しにするほどだった。 ここ数日で、今の日本社会の中枢には、信義も節度も闘う高貴さすらも決定的に欠如していることがはっきりして、それも大方の世論の反映した世相と情けなくなってしまっている身には、せめて一筋の気概を示した立憲民主には健闘して欲しいと願うばかりだ。 リベラルという言葉は、今世間で使われているような「左派のイデオロギー言語」では決してなく、本来、人間や人権・自由を尊重する精神を指すのだが、敢えて意図的な政治言語として壟断されてしまっている。実はジャーナリズムが最も尊ぶべき言葉こそ、不偏不党のリベラル精神であると、私は理解している。リベラルの同義語はサヨクでもマルキシズムでもない。対極にあるのは、国家主義、国権主義である。国の生存がなければ個人の生存もないと高々という輩がいるが、私に言わせれば、個人の生存なくしてそもそも国家機構など存在しえないのである・・・。 とか何とか、義憤を覚えながら、そのストレスも一瞬忘れて、8日の午後、まずは毎日王冠を迎えた。 GCの最終追い切りを見て、私の選んだのは、リアルスティール、グレーターロンドン、そして大穴なら力は足りないかも知れないが気配の良さが目立っていたウィンブライト。取り合えずその馬たちにオークス馬ソウルスターリングから流してみようか。 パドックを見終えて、どうも私の心はソワソワと落ち着かなかった。妙な騒めきが収まらなかったのである。すでにパソコンから決めていた馬券は購入してしまっていたが、それでも落ち着かなかった。 外国人ジョッキーから川田将雅の手綱に戻らなかったマカヒキは、もし好走するとしても次だろうと思っていた。その川田は仏凱旋門賞に乗せた陣営のサトノアラジンに騎乗する。 そのと

金魚を飼おう⑮~ランチュウの成長・1年と3か月目

     夏が過ぎて、順調に秋を迎えた。ランチュウ3匹。 また一段と体重を増したことが、今朝の水替えで判った。すくうと網が重く感じる。 最近は、餌を自分からねだる様にもなって、近づいて水桶をトントンと軽く叩いて合図を送ると、スッと浮き上がって口をパクパクと開けて、「早くちょうだい」という仕草を見せる。沈下性の餌の方がいいのがあるのだが、浮遊性の方がコミュニケーションという意味では有効だ。 まだまだどれだけ大きくなるか、楽しみにしている。                                                    

2017 スプリンターズS(中山芝1200m)と仏・凱旋門賞

世の中がどう動こうと、大災害などで施設が壊れたり、馬の輸送経路となる道路が運行不能とならない限り、決められたスケジュール通りに競馬は開催される。平和の恩恵だ。 10月1日。昼は、中山・芝1200mの短距離G1・スプリンターズS。夜は、仏・シャンティ競馬場芝2400mの世界のG1・凱旋門賞。来年からは新装のロンシャンに戻るが、去年に続き今年まではシャンティの開催だ。 真夏のローカル開催の間は、自分自身の勝負感だけを鈍らせないように配慮して、真夏なのにそれほど熱くもならずゆったりと構えていたが、久々の中央場所でのG1戦となればそれなりに昂ぶる心も生まれてくる。 木曜の夜に、GCの「今週の調教」を録画して、日曜までに数度見返しもした。 馬の走ろうとする気配を、今まで通り自分の感性で見極めようとした。感情移入して誤るときもあるが、冷静に気配を見られたときは、選んだ馬たちがそれなりに上位に好走することが多いのは、経験上判っている。勿論、人気や贔屓に眼光が惑わされないという条件付きだが・・・。 今回、最終的に日曜の午後のパドックを確認して選んだのは、軸はデムーロ・レッドファルクス。相手は、調教もパドックの気配も輝っていた石橋脩・ワンスインナムーンを1番手に、岩田・レッツゴードンキに、後は趣味で笹田厩舎(そう言えば、笹田さんパドックで馬の傍に来るときはサングラスの着用は避けましょうね。この前ちょっと気になりましたから)浜中・ダンスディレクターに、武豊・ダイアナヘイロー。栗東に行って最終追い切りに横山典弘が乗ったシュウジにも、春・高松宮記念の覇者幸・セイウンコウテイにも食指は動かなかった。 いやはや、スプリンターズSのゴール前は燃えた。 ワンスインナムーンが先頭で粘りを見せ、そこにレッツゴードンキが中団インから追い上げて迫り、さらにひと呼吸遅れて外からレッドファルクスが弾ける差し脚で豪快に迫ってきたのだ。 通常なら、レッツゴードンキとワンスインナムーンで決まっていたのかも知れない。しかしレッドファルクスのゴール前の坂を上り切った後のわずか1Fに満たない距離での差し脚は驚異的だった。ゴールでは、全ての馬たちを交わし切っていた。凄い・・・。 レッドファルクスは、スプリンターズSの2連覇を達成。過去には、サクラバクシンオーとロードカナロアだけしか成し遂げていない

「名を捨てて実を取る」ということ

   勝つか負けるか? 最初は、目標実現のための大まかなる「大同団結」かと思った。 分断された細かな固まりが、とりあえずひとつに固まって、より大きな集合体となる。後のことは、固まった中で徐々に整理整頓していけばいい。最初から前提の条件闘争にはやる教条主義には、発展性はない。おおらかな懐の深さこそが、集団を強化しより大きな人々の固まりとなることを保証するのだが、やはりそのことを理解する度量は伺い知れなかった。 止揚(アウフヘーベン)という言葉が使われたが、私のつたない学習経験だと、止揚とは、確か弁証法的には、AとBという対立する軸が、真摯な議論によってCという新たなパラダイムに発展するという作用のことである。対立を抱え込まなければ、そもそもアウフヘーベンすらできないのだ。 そう考えていくと、どこやらの女性新代表は、(レヴェルの低い取り巻きを含めて)すでに排除の論理で限界を示してしまっているし、それなりの資金と数を持っていたはずのどこやらの男性代表は、かつて偽メール事件でそうであったことを再現するかのように、またも詰めの甘さを吐露してしまった。「名を捨てて実を取る」前に「名も捨てて実も母屋も取られてしまう」状態になっている。嘆かわしいものだ。 今回の喜劇の裏側を勝手に妄想推測すれば、それなりに浮かび上がってくることがある。どこやらの何とか会議が、モリ・カケ私物化首相のやがての失脚に保険をかけるように、結果的に野党第一党を解体・乗っ取りの形で女性新代表の作った新しいグループに肩入れを図ったと考えると、様々なことが納得されるのだが、果たして真実はどこにあるのか?山暮らしの中では、遠い永田町の景色の実態は見えず、勝手に想像を逞しくするしかない・・・。 アッ、今、気づいたのだが、そうだ、自然と同化する今の私には、摩擦を呼ぶ対立軸が(自分の心の思いと置かれた現実以外には)生まれ得ないので、結果的に私は社会的にはアウフヘーベンしない奴になってしまっているのだ。まあ、それはそれで良しとするしかないのだが・・・。