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11月, 2017の投稿を表示しています

2017 JC~東京・芝2400m H.ボウマン「教科書通りの正攻法競馬」

いつもの通り東京競馬場に着いたのは11時頃。 人波にもまれながらスタンドを横切り、東来賓受付から8階ダービールームに向かう。 と、いつものメンバーが揃っていた。微笑やかに挨拶を交わして着席。思うところがあってこの1週間タバコを止めていたが、タバコの買えない競馬場で頭の中がイライラするのを避けようと、駅で1週間振りに一箱買ってしまい、いざ出陣と心の準備は整えたが、買った後には、己の意志の弱さを悔やんでもいた。せっかく1週間も我慢していたのにと。でも止めるときに止められる自信を得たのだからと、都合良く自己納得してもいた。私の本質は、意志の弱い人間なのかも知れないが、あまりに禁煙にムキになるのも不自由だと感じるおおらかさを持っているのだ。 ワイワイ言いながら、山暮らしの日常とは違う賑やかな部屋の雰囲気に、今日は軍資金が多少少なかったこともあって心から馴染めず、そんな心境からだったろうが、ついペースを乱して5Rから競馬に参加してしまった。これも柄にもなくタバコを止めていた影響だろうか? 所沢までのレッドアローの中で、実は今日の9Rと10Rは新聞を広げて眼を通していた。閃いてもいた。 共に馬連3点のボックス予想で、9Rは、ルメール、ムーア、デムーロの外国人騎手の揃い踏み、10Rはボウマン、戸崎、ムーアを調教欄から選び出していた。 だからきちんと選んだレースだけに手を出したなら、いつものマイペースだったのだが、肝心のJCでは、ボウマンが乗って馬が走る気を示していたシュヴァルグランや、ルメールが調教で馬の気配を引き出していたレイデオロも、いつものように黒岩悠が馬を仕上げたキタサンブラックを外してみようと思っていたので、どうも平常心を失っていたのかも知れない。 シュヴァルグランやキタサンブラックを今日は応援しないと決めたのは、どうもオーナーサイドの濃い目の顔が馬よりも先に浮かんできて、あまり幸運を独占するなよなという庶民の意固地だったろうし、レイデオロはダービー馬だがまだ古馬の一線級とは闘っていなかったので、それならここ2戦古馬にもまれる体験を重ねた負担重量53Kgのソウルスターリングに期待してみるかと思ったのだった。 で、時間つなぎを兼ねて、つい5Rから手を出してしまったのだ。 しかし競馬場当日のテーブルで直感するだけの推理では、結果は惨敗。デ

金魚を飼おう⑯~ランチュウの成長・1年と4ケ月目

今日は、金魚の水替えの日。 エアポンプと小さなフィルターだけのこんな原始的な環境で育てているが、これが逆に金魚たちにはいい環境となっているのか、去年の秋以降、大きな病気もせずに順調に育っている。 過度な装飾を施したガラスの水槽飼育より、贅沢は敵だとばかりに清貧質素なたらい桶飼育の方が結果がいいことを教えられた1年だった。(でも、私自身は贅沢はステキだと思う我欲は失ってはいないのだが・・・)   今回はエアでランチュウたちの姿はクリアーに見えないが、ときにはこんな写真も風情があるのかも知れない。 これからの季節は、多少餌を減らしていくのだが、居間に置いているので午後になって水温が上がると、餌をねだる動きも活発になるのでつい甘くなってしまう。お腹が空いたのかいと、つい情に負けてしまうのだ。 だから結局、週に一度か10日に一度の水替えは、どんなに寒くても手を抜けないことになる。 まあ、いいか。立派に太らせてやるのも道楽だ。このたらい桶には、ランチュウ3匹とお気に入りのオランダ獅子頭が1匹。雄雌の区別は判らないが、いずれ交配のしぐさを見せるようになったら別々にしなければいけないかも。 それまでは、このまま飼っていようと決めている。

第6感の重要性

<勝負感も知に基づいた第6感である> (絵:N.Akira) 人には、閃いて働く「第6感」がある。 感覚には、視覚、嗅覚、触角、味覚、聴覚を指して「5感」の感覚があるが、それらが機能して働くとある一瞬に、人はある種の動物的本能で「第6感」を機能させるのだ。 そのためには「5感」を駆使する普段の訓練が必要となる。おそらくそれは、鍛え抜かれたた忍者が皮膚感で感じる気配のようなものでもある。 こんな風にも言えるかも知れない。例えばアスリートがグランドですばらしいファインプレーを実現する瞬間。狙ってやれることではなく、気がついたときには肉体が反射的に動いて、できてしまっていたという結果が後から実感できるような瞬間だ。 「5感」を鋭く機能させる日常鍛錬がそんなファインプレーを支える。 現代人は、おそらく「5感」を動物的に働かせる前に、何気なく指先を動かして便利に(しかし動物的には明らかに退化であろう)目先の情報を得てしまっている。時間は節約できるのだろうが、何か大事なものをおろそかにしてしまっているのではないか? 例えば道に迷って、今自分がどこにいるのか判らなくなってしまっているとき、その問題を即座に解決するには、スマホで地図や現在位置情報を探ればいいのだろうが、敢えて迷いながらも自力で解決してみることに意味はあるのだ。時間と太陽の位置から方角を探ってみることなどから、解決の道は開けていくだろう。 もし無人島に行ってサバイバル生活を始めるとなったとき、あるいは戦火で焼け出されて難民生活となったときなど、補充電源が失われた1台のスマホより、1本のナイフの方が頼りになるに違いない。 そんなときは、生半可な情報より、水の在処や食べられるものかどうかの動物的判断の方が有効だ。 洗濯機の実現は社会的に大きな貢献をしたとは思うが、ボタンのプッシュ操作一つで何でも実現できるような文化的生活は人間の退化を早めるものになると思えてならない。センサーを頼りにする自動運転、自動ブレーキの車も然りだ。 アナログ人間種族かデジタル種族かの違いは、機械は壊れるものと予知するか、機械の安全神話を信仰するかの違いだろう。 私自身は、機械はいつか必ず劣化して壊れるとしか思えないので、アナログ種族である。 でもだからこそ、人の

ついでとばかりに~普段使いの駒たちを

3日ほど前に、湿気の悪影響がなかったかと取り出してみた盛上げ駒。 何故か、ご覧になる人たちが多く、今さらながら驚いています。ただ私は宣伝係でもブローカーでもないので、敢えて作者の名には触れていませんので、ご推察くださいませ。 で、ついでですから、普段使いの駒写真も撮ってみました。著名な駒師の作もあれば、この私の手になる下手な駒もありますので、ご注意ください。 こんな駒をその日の気分で使っています。 そう言えば、こんな駒も平箱にしまっていました。この<篁輝>書体は今では珍しいでしょう。                                                       自作を含めて、これだけでもう6組。使いこなすことも手入れするにも骨が折れます。 改めて、欲しがる所有欲に責められて、ただただ増やせばいいというものではないと思い知らされます。 それでも欲しくなるのなら、1組手に入れたら1組を手放す意志を持つことかも知れません。 使われてこその道具ですから。 そう思う、今日この頃です。

2017 マイルCS~京都芝1600m またもやミルコ!!神様、仏様、ミルコ様!

11月19日。先週のエリザベス女王杯に続く快晴の京都競馬場。 マイル路線を目標とする馬たちが揃ったが、私の結論には少しも迷いがなかった。 このブログに眼を通してくれている方なら、私自身がエアスピネルとイスラボニータをずっと応援していたことをご存じだろう。 それに、3歳の皐月賞2着馬ペルシアンナイトと、京都での適性実績が少しばかり気になるがサトノアラジンも抑えておこうと決めていた。武豊の路上キスや調教中の負傷が影響したのか、エアスピネルは直前にR.ムーアへの騎乗交替となってもいて、それでどんな走りを見せるか大いに興味もそそられていたのである。軸はこの馬だ! どう考えても、何のアクシデントもなかったなら、最後の直線ではムーア、デムーロ、ルメールの揃い踏みの叩き合いになるだろう。そこに川田将雅が差し届くかどうか。好位からエアスピネルとイスラボニータ、ペルシアンナイトはミルコの必殺技のイン攻撃か。サトノアラジンは直線いっきだろうが、坂のない京都ではトップギアに上げる勝負の瞬間をよほど的確に掴まないと追いすがれないだろう。午前中からレースの瞬間を楽しみにして過ごしていた。 ところがである。昼前に急用の連絡があり、どうしても出かけなくてはならなくなった。できるものならトボケタイとも思ったが、浮世の義理でそういうわけにもいかない。とりあえずGCのレース録画を予約して、パドックも生(ナマ)で見られないなら、ほんの少しだけ購入しておいて、もし運良く間に合うようなら急いで家に帰って買い足すことに決めて、後ろ髪を引かれる思いで着替えて外出した。 結局、用事は夕方過ぎまでかかり、家に帰りついて録画画面を見た。 直線、ムーア・エアスピネルが抜け出し、ゴール前にイン攻撃から抜け出して来たデムーロ・ペルシアンナイトが迫って、エアスピネルが最終最後に脚勢を弱めた瞬間に差し切っていた。エアスピネルは強い競馬をしたが、G1にはほんの僅か届かなかった。 ゴール前の攻防は見応えがあったと思う。 この結果に、何故、よりによって今日、浮世の義理を果たしに出かけなくてはならなくなったのかと恨めしく、つくづく自分の運気の弱さを感じた次第である。タラレバだが、あのまま午後にゆっくりとレースを見守れたなら、納得できる勝負ができたのに・・・。ほんのチョイ抑えになってしまった・・・。誰を恨むのでも

ちょっとその気になって

(フラッシュ撮影画像で飛んでしまっているが、古木の味わいがある) 先週末、マイルCSの前夜、そう言えばと気になって、久し振りに将棋の盛上げ駒を取り出してみた。 先月の降り続いた雨で、何か異変がなかったかとチェックした次第。駒は黄楊の木でできている。木材には湿気は危険だからだ。 結果何事もなく、安心した。イボタ蝋で磨いて仕上げた効果だろう。 結局、飽きずに私の手元に残ったのは、伝統ある「安清」系の書体だった。好みは時間と共に収斂して明確になるものだ。そこに至るまでに、あれもいい、これもまたいいなどと、無駄に浪費を重ねて迷い惑うていたのだが、楽しさで言えばその瞬間こそが楽しかった。今は冷静なので、ほとばしる様な熱さはもう生まれてはこない。いいものに触れたときに「これなら飽きさせないでくれるな」と、そっと頷くだけで満足する境地で、何が何でも手に入れたいなどと焦る気持ちもない。 あと2~3組ほど廉価な木地を預けてある駒師もいるし(まあ忘れていなければそのうち手が空いたら作ってくれるでしょう)、いざとなったら下手を承知で自分でも挑戦できるし・・・。 先週末は、こんな老成した境地で過ごしていた。 そして・・・・。       

「信」という言葉

「信」という言葉が、その意味をすり替えられてしまって久しい。 信用、信頼、信義、信実、信念・・・信仰、信徒などという熟語もある。 「信」という言葉は、人偏に言葉という構成だ。つまりは、人の言葉によって、信用も信頼も信義も信念などもが生まれていることになるのだが、21世紀になってから、それも特にここ5年ほど、人の言葉がこれほどまでにいかがわしくなっている時代風潮は嘆かわしさを超えている。 社会の上に立って粉骨砕身の精神で下々の小さな幸せをリードすべき存在が、率先して「信」という人が発する言霊の精神を裏切っているのだから、何をか況やである。過去には三菱自動車や雪印、今は日産や神戸製鋼に象徴される大企業も然りである。 教育を商売にする輩の学園の「誰かのお友達である」責任者が、引きこもったまま何らの言葉をも社会に発しないままに、莫大な公有地や予算を得て認可される不思議さも同様だろう。社会に発する責任者自身の言葉もないのだから、「信」など生まれようもないが、もっと不思議なのは、それを取り巻くお偉い方たち(たぶん自分が選民だと自惚れているだけだろうが・・)の言葉に、「信」の気持ちが全く抱けないのは、いったいどういうことなのだろうか? 答えは、判り切っている。それらの言葉に、包み隠そうとする偽善・欺瞞はあっても「信」の裏付けがないからだ。 「信」を失った時代、「信」を失った社会が行きつく先は、ああ言われたらこう言い返して、既成事実を作り重ねていく不誠実な時代と社会だろう。誰も責任を取らず、最大多数の最大幸福ではなく、最小少数の特権的幸福を調整する選民社会に夢と希望の未来などありえない。 何となく、次代が不安な世相が続いている。正直、怖さを覚えるほどであるのだが・・。

2017 エリザベス女王杯(京都・外回り芝2200m)~秋晴れの爽やかな空の下なのに・・・

3頭が凌ぎ合いを示してゴールインした瞬間、私は声を上げた。 「オイッ⁉」っと。 「オオッ!!」でなかったのが、儚く辛いあるがままの現実だった・・・。 10月のG1戦の晴れ舞台がずっと大雨に見舞われていたこともあって、この日京都で行われたエリザベス女王杯が爽やかな青空の下で開催されたのは、久し振りに幸福感を覚えるほどだった。 集ったメンバーも3歳から5歳世代と、7歳のスマートレイアーまでの現時点での最強アマゾネスたちが揃って、秋晴れの良馬場でのスピード決戦を予想した多くのファンたちもまた、それぞれに大きな夢を抱いてレースを迎えようとしていた。実際、この出走馬たちなら好きなどの馬からでも馬券での応援は可能と思わせる様相だったのである。(別の視点から言えば、だからこそ難解という意味もあったのだが・・・) いつもの通りGCの最終追い切りを見て、最初の段階で、その気配に魅かれたのは、ルージュバック、ミッキークイーン、スマートレイアー、クロコスミア、モズカッチャンとヴィブロスの6頭だった。出馬表に黄色のマーカーでサッと印をつけたのだから、直感そのものは正しかったはずだ。 でも6頭の選択は、私には多過ぎる。レースの時刻までにもう少し絞りたい。 出馬表の内から、和田竜クロコスミア。最終追い切りで、馬自身が走る気を見せて、抜群の手応えある気配を発散していた。2枠4番から、今の和田竜二が前を行く騎乗で持たせてくれたなら大きな可能性があると読んだ。10月14日の稍重の馬場での上り33秒7の逃げ切りは印象的だったこともある。このときドバイ以来の復帰初戦だったヴィブロスを負かしたのだ。それに騎乗者に決まった和田竜二が、最近は前に行く戦法で確実に実績を挙げているのも心強かった。思えば、和田竜二は、テイエムオペラオーの3歳春の毎日杯で最後方からのごぼう抜きを決めて、馬共々スポットライトの中に浮上したのだが、今では先行タイプの騎乗で粘りある姿を示している。これなら初騎乗でも安心以上に勝負掛りと見なせるというものだ。 M.デムーロ・モズカッチャン。その名は地味だが、オークス2着に粘ったしたたかさや、落鉄に見舞われた重馬場での秋華賞3着で示した安定感は、新種牡馬ハービンジャー産駒の出世頭にまで這い上がっている。騎乗するデムーロの強引なまでのしたたかさとのマッチングも効果大であるに